地下鉄海岸線「和田岬駅」から徒歩3分。兵庫区和田宮通の住宅街に際立つ灯台のシンボルマーク。倉庫跡にオープンした「岬の焙煎所」は、自家焙煎珈琲豆の卸売と小売を行っています。出迎えてくれたのは、店主の齊藤仁史さん・由香さんご夫妻。当初は卸売専門だった会社が店舗を構えた経緯、夫婦間での価格論争。味わい深いコーヒーをいただきながら、仲睦まじいお二人にお話を伺いました。
文:柿本康治 写真:岩本順平
“ゼロ”から始めたコーヒー屋
仁史:兵庫区にあるコーヒー卸売の会社が後継者を探していると知ったのは、2009年のこと。当時はアパレルの会社で販売の仕事をしていて、今思えば無謀ですけど、会社を引き継いで経営者になりました。コーヒーや経営の知識はほぼゼロからのスタート。コーヒーの通信講座を受けて、焙煎や仕入れについては現場で学んで、簿記やファイナンシャル・プランナー、宅地建物取引士の勉強をして、とにかく怒濤の日々でした。
由香:私が働いていた喫茶店が得意先で、夫とはそこで出会いました。会社を引き継いだ半年後には結婚して、子どもが産まれる前に喫茶店の仕事を辞めましたが、まさか夫の会社で働くことになるとは思ってもいなくて……(笑)。人を雇うほど余裕のある状況ではなかったので、元々いた従業員の方から事務の仕事を引き継ぎました。今は家族経営で、淡路島に住んでいる夫のお父さんも豆の配達を手伝ってくれています。
仁史:大まかに分けると、僕は豆の仕入れ・焙煎担当で、妻は事務や販売の担当。卸業でお店を相手にしてきた会社ですが、業界全体の先細りもあって2015年に「岬の焙煎所」という店名を付け、現在の場所で一般の方向けにもコーヒー豆の販売を行うようになりました。
理想の味を届けるために
由香:私はコーヒーが好きだったけど、夫は普段から飲む習慣もなかったのによく引き継いだな、と。昔から、思いついたらすぐ行動する人です。
仁史:豆の産地や焙煎の具合、抽出の仕方によって味を変えることができるのが面白くて、どんどんコーヒーにのめりこんでいきましたね。うちはご家庭で気軽に味わえる豆を中心に扱っていて、値段でいうと100グラム300円台から。初めて抽出する人でも、一般流通している業務卸しの豆で十分おいしいコーヒーは淹れられるんです。
由香:お客さんと会話して、試飲もしてもらいながら、好みの豆を一緒に見つけるようにしています。定番の「オリジナルブレンド」は飲みやすくてマイルド。「和田岬ブレンド」は深みのある豆が入っていて、しっかり目が好きな人にはオススメ。個人的には、昔ながらの喫茶店でゆっくり飲む、ガツンと苦みのあるコーヒーが好きで。小さいころ、母親と買い物の後によく喫茶店でお茶してから帰っていたからかも。
仁史:僕は新しい味を常に模索しているので、ストライクゾーンは妻より広いですね。でも昔から好きなのは、しっかりと余韻が残るもの。10年以上焙煎してきてようやく自信がついたのか、好みに寄せて全体的に少し苦めの焙煎に変わってきました。産地独特の風味を活かしたローストを心がけていて、鮮度を一番大切にしています。鮮度が落ちると香り成分は抜けるし、油脂分が酸化してしまう。安価でも新鮮な豆を提供するために、焙煎した豆のストックはあまり作らないようにしています。
由香:でも、売り切れでお渡しできないとお客さんも私たちも悲しいので、いつも葛藤しながら2人で量を話し合っています。勉強のためにほかのお店でコーヒーを飲むことも最近増えたんですけど、やっぱりうちのコーヒーが一番好き。胸を張って提供するコーヒーだからこそ、しっかり渡せるようにしたくて。
仁史:よかった……。店においしいコーヒーがあるから、妻に愛想を尽かされていないのかもしれません(笑)。
豆屋の間口を広げる
由香:お店のロゴやドリップバッグの絵は、切り絵作家のトダユカさんにお願いしました。元々お客さんとして来てくれたのが始まりで、今は家族ぐるみで仲がよくて。動物の絵が前から好きやったから、コーヒーのモチーフと組み合わせたデザインを依頼したら、豆の種類に合わせて制作してくれました。ニューギニアやマンデリンは特に人気ですね。
仁史:僕はおいしさを追求することにずっと集中していたけど、妻はお客さん目線で女性が好きなデザインや手軽に家で飲める方法を提案してくれて、おかげさまで商品がよく動くようになりました。アイスコーヒーの紙パックや、テイクアウト用のコーヒーゼリードリンクも妻の提案です。コンビニや自動販売機でコーヒーを買う人はたくさんいるけど、豆を買って家で淹れる人はまだまだ少ない。手軽でおいしいドリンクがあることで、店としての間口が広がっています。人が来てくれることで、商売の幅も広がっていきます。
由香:飲むことで、発見があるんです。一度、浅煎りが苦手なお客さんに水出しコーヒーパックを2種類、試飲してもらったことがあるんですけど、ビターのタイプではなくて果実味のある浅煎りのほうを好んで選んでくれました。他店にもあるようなテイクアウトドリンクや試飲のサービスですけど、岬の焙煎所の豆をまず味わってもらうきっかけになればうれしいです。
町の人が、よろこんでくれるだけで
仁史:以前は卸専門だったから、いかに安くして量を多く注文してもらうかという意識が今も僕のなかで残っているみたいで。気軽に常飲してもらえる価格にしたい気持ちが強いんですけど、妻からは安売りしないほうがいいと言われます。
由香:現状の値段設定で十分お手頃なのに、さらに割引きするんです。しかも、豆の仕入れ値が上がってもお値段据えおき。仕入れ業者から電話があると「えらいこっちゃ~!」って焦っているのに、価格を上げたことがない。お店を始めたころなんか、豆を買ってくれた人に夫の地元淡路のタマネギやジャガイモ、新米をプレゼントしていましたからね。そんなコーヒー屋、います?(笑)
仁史:こんな辺ぴなところに来てくれるお客さんに、よろこんでもらいたいだけなんですよ! 経営者になって少しはお金もうけしたいと思っていたんですけどね。和田岬に住みはじめて10年ほど経って、やっぱりこの町が好きやなぁと思います。近くの会社で働いている人が、毎日お昼ごはんの後にアイスコーヒーを買いに来てくれるんです。町の人がよろこんでくれるなら、それだけでやりがいのある仕事じゃないですか。
由香:近くにあるパン屋のメゾンムラタさんも「パンとコーヒーは合うから」とうちの商品を店先に置いてくれたり、地域のつながりには感謝しかありません。イオンモール神戸南ができたりと、和田岬周辺もフラッと立ち寄れる場所が増えてきました。私たちも町に貢献できればいいなって。和田岬巡りの合間に、息抜きで寄ってもらえればうれしいです。
岬の焙煎所 店主
齊藤仁史・由香
経験も知識もないまま、2009年に兵庫区のコーヒー卸売会社を引き継いで経営者に。2015年10月、店名を「岬の焙煎所」に変更し、製造・小売スペースを兼ね備えた店舗を兵庫区和田宮通にオープン。店主の仁史さんは仕入れや焙煎を担当、妻の由香さんは情報発信や接客を担当。土・日・祝日は定休日だが、毎月第4土曜日は特売日としてオープン。
掲載日 : 2021.10.01