• twitter
  • Instagram
  • facebook

神戸の新しい魅力に出会うウェブマガジン

シタマチコウベ

ワタナベランド 4th week

 

母が、合同庁舎を見たい!というので案内した。
道中、「新長田にあんなオシャレな建物って!なぁ!?」と言ってくる母に少々困惑する娘。
確かに、1階はガラス張りだし、全体的にシュッとしているし、合同庁舎のフォントなんて大好きなフォントなんである。

庁舎に入って、わたしはずっと、たくさん並んでいたチラシやパンフレットを手に取っては見ていたけれど、母は、画面が移り変わる掲示板的なものを写真に収めていて、それをわたしに見せてくれた。

そこには、『シタマチコウベ』という文字と写真があった。
母が、この『下町日和』にわたしが携わったことをとても喜んでくれていることが、よくわかった。

 

 

とにかくはしゃぐ母。

 

ここは『ふたば学舎』で、母の母校だった二葉小学校跡。
祖父は50代後半まで小学校教諭をしていて、昔この学校にも勤めていたことがある。

中に入ると、学校特有の匂い・・・油引きの匂いなのだと思うけれど、懐かしさにクラクラする。

 

今はいろんな習い事やイベントをしているようで、入口を入った壁にはそれに関連するチラシやパンフレット。

子供から高齢の方まで、さまざまな年齢層が楽しめるものがたくさんあって、わたしが〇歳になったらこれに行きたいなぁ、〇歳だったらこれもできるなぁ、などと考えるだけでも楽しい、壁の一面だった。

そして、足早にあっちこっち歩き回る母が、まるで小学2年生くらいの少女に見えた。

誰にも子供時代があって、思い出を話すときにはその時代に戻るのだなぁ。

 

 

 

そしてこは、アスタくにづかの地下にあるお豆腐屋さん。
震災前までは、曽祖父がしていた渡辺たばこ店のすぐ近くに”モリくん”の豆腐屋さんがあったのだ。
2代目は、母の同級生である。

最初は大きな方の守食品店さんで買い物をして(多分3代目が接客してくれた)、次にこの白い暖簾がかかっているお店の前に来た時に、母が何度も奥を覗きこんだのは、いるはずだろう同級生に声をかけたかったのだろう。

 

なんとも、母に根負けしたかのように、内容がいつのまにか母の思い出の地巡りのようになってしまった。

 

ご縁なんて、そんなもんである。

わたしが十年後二十年後、三十年後?

新長田で手を振っていたらいつでもお相手しくておくれ。

お酒であればいつでも受けて立つんでのぉ~

《20年後のわたしより、愛をこめて。》

 

終わり。

ワタナベランド 3rd week

この下町日和のお話を頂いてから、長い時間をかけて出来上がった1枚目の絵を母に送ったとき、
「お好み焼きは?」「新長田と言えば靴やろ?」「神戸飯店じゃなくて神戸デパートやで」
と立て続けにLINEが届いた。
地図を作るわけじゃないし、新長田について盛りだくさんに絵を描くわけじゃないから!と伝えたら
「わたしの思い出は?」
と返ってきた。
(お母さんの思い出?いやいや、別にそんなんええねん…。)
冷たい娘である。

 

それから少し経って、幼いころから母がよく連れて行ってくれた大好きな中華屋さんに、久しぶりに行かへん?と聞いてみた。
病気の父に付きっきりだった母。
ダメだろうなと思っていたのに、母から返ってきたLINEは、超が付くほど乗り気な返事だった。

 

母娘デートの日、母は15分も前に到着していた。
足早に中華屋さんに向かう。
到着してメニューを見るなり、2人して「あの頃、肉飯と五目焼きそばって言うてたけど、正式名ってわからへんなぁ…」。
でも、ちゃんと注文は通った。
いろんなメニューがあるのに母と来ると必ずこの2品だったのが、今考えると不思議でならないけれど、母にも理由はないようだった。
わたしが大人になり、母無しで行くようになっても同じものを頼んだ。

たしか、幼心に「ここのお茶はどうしてこんなにおいしいんだろう!」と思っていたのだけれど、大人になってからそのお茶がジャスミンティーであったことに気づき、「わたしは子供の頃からこれを知ってる!」と誰かしらに自慢していたような気がする。

 

写真はその日撮ったもので、行ったのも母とわたしだけなのだけれど、絵の左側にいるパーマの人は、今は亡き祖母である。
子供の頃、祖父母の家によく預けられていたわたしは、祖母ともこのお店に来ていた。

思えばわたしは常連だった。に違いない。

 

肉飯と五目焼きそばをペロッと平らげて、母と少し思い出話をした。
普段せっかちな母が今日はのんびりしている気がして、わたしは何となくホッとした。

そう感じたのも束の間。
「このあとも周るんやろ?」
そう言われ、お手洗いを済ませてそそくさとお店を後にした。

 

ワタナベランド 2nd week

わたしの祖父と祖母はその昔、大正筋にあったたばこ店の息子とその隣家の娘であり、その娘が18歳のときに産んだ女の子が、わたしの母である
そして祖母が43歳のとき、わたしという孫が生まれた。

 

そんな孫もいつのまにか結婚をし、離婚を経験し-、そういえば離婚後にも2年ほど長田区に住んだ。

新長田駅よりだいぶ北の、山の中腹だった。

この記事を書いていなければほんとうに忘れるところだったけれど、ちょくちょく長田区を選んでは住んでいたんだなぁと、思い出す。
子供のころの記憶とはだいぶ違う今の長田区—、新長田。
それは震災があり、大部分が区画整理されたからということもあるけれど、自分が大人になったから、でもあるんだろうな。

 

そういえば幼いころ・・・

覚えているのは大正筋入口のキラキラしたクジラの壁画-
スパンコールのような、鎖帷子のような、風で動く何かでできていて、あのクジラがいつも門番のように見えた。
なんでクジラ、だったんだろう。
なんであの素材、だったんだろう。
無くなって、寂しい。

ワタナベランド 1st week

 

この下町日和のお話を頂いてから数日。

スーパーで買ってパックに入ったままのお刺身をチューハイ片手につついていると、TVからクリスマスソングが流れてきた。
もうそんな季節なのか―と思った途端、既視感のような感覚に陥り、かつてわたしには1人暮らしをしている祖母の家に通っていた時期があって、その家でおつまみをつついていたそのときの風景が、目の前の景色と重なった。

よく覚えている風景がある。
大正筋の入口が左手に見える、2号線の夜の歩道。

納品の帰りであったり、友だちと飲んだ帰りであったり、何かと外出先から帰るときがほとんどで、祖母に電話1本かけては、わたしはたいていワイン1本とおつまみを買って、祖母の家によく通っていた。

祖母は、祖父とともに仮設住宅での生活を終えてそのマンションに住んでいたけれど、数年後に祖父が亡くなって、それからは1人で住んでいた。

 

駅を降り、広場を通り過ぎ、なんとなく商店街を通らずに、2号線まで歩く。
向こう側に見える神戸飯店の看板。
それとは反対側の建物が祖母の住むマンションだった。

若くて中途半端で、混沌としていた20代後半。
祖母は、1人暮らしをしていたわたしにとって都合のいい友達のような存在だったのかもしれない。
その時わたしは25歳、祖母は68歳だった。

そういえばあの頃1年ほど、わたしも長田区に住んでいたんだっけ。
15年以上前のお話。