今回は、ノエビアスタジアム神戸の最寄り駅、御崎公園駅での飲み歩きです。ゲストは、soarやCAMPFIREでの勤務をへて、最近神戸にUターンで移住した前田彰さん。今回の記事を、「生き方」や「働き方」に疑問を抱きながら生きている同世代や若者達に届けたいという前田さん。夜の下町で出会った、多様な生き方や暮らし方と、前田さんのメッセージに、じんわりと心がほぐれていきます。
文:前田彰 写真:岩本順平
おかえり
約1年半の東京生活を終えて年末に地元の神戸に戻ってきた。
帰省の新幹線の中では東京での生活や出来事、お世話になった人の顔が駆け巡る。
「ローマ字使ったらカッコいいけど意味同じやん」
良いように言うとUターン、悪いように言うと都落ち。
そんなこと考えてたら神戸についた。
神戸という街が好き。
港町として海外文化が出入りして来たことで多様性に寛容な風土があり、山と海が近く自然が豊か。スタートアップの支援にも積極的に取り組み、面白い人や場所がポコポコ生まれている。何より物理的にも心理的にも人との距離感がちょうど良いところが心地良い。人の心に土足では上がらない、だけど気にはかけてくれている、そんな感じ。例えばお昼に乗った電車にはほぼ確実に座れる。東京じゃありえない。乗ってる人が自分以外高齢者ばかりでたまに心配になるけどね。
そんな神戸の中でも最近出入りしている長田の街。
子どもの頃からイメージしていた長田の街は「ガラが悪い」「変な人がいる」というイメージだった。でも街に出入りするようになって「子どもが商店街を走り回っている」光景や「多世代が混じり合って過ごす」空間がそこにはあった。経験したことはないけれど昭和ってこんな感じだったのかな?なんて思ったりする。日常を感じながら過ごしていく中で、何よりも人との交流に「温かさがある」ということに気が付いた。(変な人もいるけど)
飲み歩きの記事だけど、せっかく自分が書くのだからテーマを決めよう。
「生き方」とか「働き方」にモヤっとしながら生きている同世代や若者達に、この街の温度感が伝われば良いと思ってる。こんな街があること、こんな暮らしがあるということが人生の選択肢の一つになればいいなと思います。知らんけど。
家族で来れる焼き鳥屋
シタマチコウベがスタートして約2年。御崎公園駅を回るのは今回が初めてだそうだ。
隣の和田岬や苅藻のような飲み屋さん街が連なるところと比べてお店は少ないのかもしれない。駅前にはお寿司屋さん、イタリアン、駅前には綺麗なお店が並ぶ。
「でも、シタマチっぽくないしな」
「こじんまりした所が良いですね」
そんなことを話しながら大通りを曲がった所、食欲をそそる赤い看板に惹かれて入っていった。御崎公園のほど近く。1軒目は「焼鳥 千鳥」
のれんを潜ると寡黙そうな旦那様と奥様の姿があった。
味のあるメニュー表、奥には6名程が座れるL字のテーブルと8席のカウンター。
千鳥
「オススメは何ですか?」
「そりゃもう全部!端から端まで食べたらええねん」
常連さんぽいお父さんがカウンターの奥の席からにこやかに教えてくれた。
単身の一人暮らしだったり、コンビニやスーパーの半額弁当を選びがちな自分にとって「温かい」というだけでも心に沁みる。
しかも炭火で焼きたて。絶妙な焦げ目が照明ともマッチして食欲をそそる。どこで食べるかも含めて料理を味わうということかもしれない。
そうこうしている間にお母さん2人、お子さん2人、おばあちゃんが1人が入ってきた。
子連れで来れる焼き鳥屋って素敵だ。チェーン店だと年齢確認とかされるかもしれないし、周りに迷惑をかけなかなかできないかもしれない。街の中にあるお店だからこそ気兼ねなく入れるんだろうな。
「ボクみたいなおじさんから子ども連れの人たちもこれるんよ」お父さんが教えてくれた。
きっと泣いたり走り回っても、他の席の人は「まあええよ」「子どもは元気やないとな」とか言われて「すいませーん」なんて言いながら笑ってるんだろうか。他のお客さんが子どもの相手をしている間に熱い話をしたりするのだろうか。いつかこんな夜を過ごしてみたいなと妄想が進む。
理想の暮らし。仕事と暮らしを曖昧にして遊ぶように働いていきたいと思うようになった。そうやって逆算&引き算で「働き方」や「仕事」のことを考えてみるのも良いと思う。
こんな光景が日々の暮らしにあることは、心に余白を産んでくれるような気がする。
店を出る直前まで煙の向こうから子ども達の泣き声と笑い声が聞こえていた。
街の小さなお店だからこそ見える景色がそこにはあった。
「ぼくら定年が無いから気持ちは50代や」
「いやー、夜になるとやっぱ寒いっすね」
千鳥を出て街灯もない道を進みながら口にする。
この冬何回言っただろう。毎年何回言ってるんだろう。
こんな機会がなければ歩かないだろう道の先、そこにあるひとつの灯りに吸い込まれるように入っていった。 居酒屋「のれん」。
お寿司屋さんみたいなカウンター席、こじんまりしていて街の居酒屋って感じが良い。
一杯飲んだ後に取材のことを伝えてみた。すると快くOKをもらい話に花が咲いていった。
お父さんが25歳、お母さんが23歳の時に結婚し約50年を共に過ごしているそう。
主にカウンター向きに立っているお父さんの話を回し、お母さんは料理をしながら話に参加してくれる。
のれん
「ここが出来て1ヶ月後に震災があったんや。だから建物は無事に残った。近くの学校が避難所やったんやけど、ここには食い物だけはあったから毎日宴会やったわ」
震災と言われると「怖い」「暗い」「可愛そう」なんて避難生活が思い浮かぶ。だけど宴会をやっていたなんてそれもそれでとってもリアルな話。
とにかく二人は元気だ。
お酒を飲みながら、時折タバコもふかしながら楽しいお話をしてくれる。
「ぼくらには定年が無いから気持ちは50代や」
滑舌も姿勢も若々しい。カウンターに座り猫背で頬張る自分とは大違いだ。
朝は三匹のワンちゃん(クロ、チロ、?)を散歩して、毎日15:00ごろから買い出しをしてから仕込みがスタート。そして22:00までお店を開けているらしい。
お客さんから人生や恋愛など相談を受けた時には深夜2:00ごろ開けて話を聞くこともあるらしい。そうやって日常に体温を宿しているのだろう。
温かさは人と人の間に宿る。効率的でしっかりと線引きをしたりルールを明確にした方が安全で世の中は便利だ。もしかすると味だって美味しいかもしれないし、星もいっぱいつけられるかもしれない。だけどそうやって線引き(例えば「プロのお客さん」と「プロの定員さん」のような関係性)をしたらハプニングが起こらない。人が起こすトライ&エラーの中に体温や色があって、そこに機械ではつくることのできない温度感が宿っている。
偶然居合わせた常連さんの(ここでは書けない)話を聞いていると、隣のお家からワンちゃん達を連れて来てくれた。
そんなサービス精神だってきっとこんな場所だから出来ることだと思う。
「何もしなかったらボケてすぐ弱ってまう。猫と縁側で過ごすようになったらアカン」
そう何度も口にするお父さんと、夫婦漫才のような掛け合いを見せてくれるお母さんの姿がなんとも愛おしい。
「僕の40-50年後はこんな姿でいるのだろうか?」
そんなことを考えながら後にした。
最新のDAMと焼きそばあんかけ600円
「もう時間も遅いし2軒でいっか」そう話しながら歩いて10分ほどのカルチア食堂へ。
「この近所にオススメの場所があるから行こう」
店主の義人(ヨシト)さんに連れられ歩いて5分。
「本当は教えたくないねんけどな」
そう言いながらたどり着いた「かぎや」。扉を開けるとこじんまりとした実家のような空気感が溢れ出していた。
「歌うのは終わりやけどええの?」
ここではカラオケが歌えるらしい。だけどどうやら0時までらしい。
時間はちょうど0時にまたがる直前、「ええよええよー」と入れ替わるように入り店内は4人だけになった。
「おしぼり出るまで時間かかるよ」
「料理出てくるまで時間かかるよ」
そう教えてもらった通り、全ての動きはゆ〜っくりだ。
そして大好きなおしゃべりが盛り上がるとさらに調理はストップする。その姿はとても愛らしくてこちらもずっと見てられる。何だったら出てこなくたって良いとすら思える。
よく見るとカウンターの奥には
冷蔵庫(年季入ってる)・電子レンジ(年季入ってる)・カラオケDAM(最新)
という不思議な並びが目をひく。そのギャップがまた面白い。
かぎや
「身体ヨレヨレやけどええの?」
心配なのかそう何度も聞いてくるけど顔はにこやかだ。
「ええよええよ、気にせんといてー」
そう言いながらお店の上の方にあるメニュー表を見上げた。
メニーウ/シャウエッセンソウセイジ
宮崎の両親に習った味噌をつまみに一杯引っ掛けながら考える。
日々のスピード感についてだ。
東京にいた時は立ち止まると置いていかれるような気持ちになった。みんな絶えず走っている気がした。何か目標がなければいけないような気分だった。朝から次の朝まで誰かが踊り、走り、騒ぎ、自分の夢や行動した姿を発信して輝きが眩しかった。
それが神戸に帰ってきてからは時間の流れがゆっくりになった気がする。
物理的な時間はどこにいても国が違っても同じはずなのに、ところが変われば時間に奥行きや深さすら感じる。
いつしか余白がなくなって「ぽこっ」と「ふわっ」と生まれてくる自分の自然体で背伸びしていない想いを掬ってあげれなくなる。
その想いこそ「生き方」や「働き方」にも通じるものだと僕は思う。
人生だって一直線上にはなくて、横幅があって奥行きがあって深みがある。ならば走り続けなくても時に立ち止まっても寄り道してもいいんじゃないかとさえ思えた。
何にしても意味を持たないと生きにくい。だからこうやって意味がなくても過ごせるところ、意味のない時間を過ごすことで怒りや焦り苛立ちと離れることが出来る。そこで生まれた隙間の中に自分で意味を見いだすことが出来るはずだ。
焼きそばあんかけ600円。
そこには愛情と愛嬌が溢れるお母さんの優しさも詰まっていた。
「若い子来たら嬉しいわ〜。また来てね〜」
また来るよ。
だから元気でいてね。
ただいま
解散したのは深夜2:00頃。外には人っ子一人いない。
相対的に思い出すのは東京・渋谷。
深夜になっても人がうじゃうじゃいて、電灯もピカピカと光り続けている。
なんだかボーッとする時間も取れなくて、空も狭くていつの間にか切羽詰まっていたりした。
そんな時間を過ごしたからこそわかることがある。
結局は「人と人との繋がりが全て」ということだ。
心が苦しくなった時、フラッと立ち寄れる居場所の存在がとても有り難かった。子どもの声が聞こえて、お母さん方が井戸端会議をして、黙々と勉強に励む学生と読書に勤しむダンディなおじいさんが同じ空間に並んでいた。みんながそれぞれにやりたいことを、やりたい場所で、やりたいペースでやっている。だけどふとした瞬間に目があったりする。お互いをなんとなく認知しながら共に過ごしている。いざという時にはきっと助け合えるんだろうな。そんな空間がとても居心地良かった。
今回お邪魔したお店は地域の風景や時間に馴染み、「暮らし」の中に存在していた。「生き方」や「働き方」を考えていると他者からの情報で自分を比べてしまったり、表面的な部分だけを見て大切なことまで向き合えなかったりする。だからこそ温度感やスピード感を感じるとこで地に足をつけてくれたのだと思う。
何が言いたいかっていうと、「理想の生き方」や「理想の働き方」だけでなく、「理想の暮らし方」から考えてみるのも面白いよってことです。僕は「暮らし」や「日常」をつくることで「家族」のように想いを分かち合える人をこの世の中に増やしたいと思いました。
知らんけど。
※掲載内容は、取材当時の情報です。情報に誤りがございましたら、恐れ入りますが info@dor.or.jp までご連絡ください。
掲載日 : 2020.05.29