今夜、シタマチで。vol.04 前編 わいわい和田岬編 by 森本アリ:前編

森本アリさんが行く、和田岬の角打ち。
神戸・塩屋の旧グッゲンハイム邸の管理人、「三田村管打団?」などで活躍する音楽家であり、塩屋のまちづくりや文化・アートの発信を手がける「シオヤプロジェクト」「塩屋百景」の発起人である森本アリさん。
普段、ひとりでは飲み歩かないという森本さんが、旧グッゲンハイム邸のスタッフのみなさんと巡ったのは、和田岬の角打ちの数々。古くから三菱重工の工場があるこのエリアでは、和田岬の重要文化財とも言えそうな歴史あるお店から駄菓子屋に至るまで、子どもも(?)大人もサクッと安価で飲めるお店が存在します。
3部構成の超大作(?)、読んでいるうちに「何の記事だったっけ?」と惑わされるので、念のためここでも説明をしておきます。このコーナーは、下町を飲み歩き、その雑感を記してもらう企画です。

文・写真:森本アリ 写真:岩本順平

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和田岬という言葉を初めて聞いたのは、海と山が接する塩屋で子どもの頃、山で遊んでいた時、近所の“やすくん”が岬のようにとんがった谷に突き出た尾根っぽい部分を「わだみさき」と呼んだ時だった。そこは秘密の遊び場で今でもある。海は見えてるのだけどかなり山深いところで、自分の子どもが今、僕の当時の年齢に近くなると、危険だなーと思ったりもするけど、山でもおおいに遊んで欲しいと思う。やすくんの親は兵庫区の稲荷市場のすぐそばでタオル屋を営んでいた、秘密の遊び場が「わだみさき」と呼ばれた頃、本当の和田岬が兵庫の方にあると聞いていた気がする。和田岬線の車両からあふれる客の話も聞いた気がする。車のなかった、親戚もほとんど近所にいた僕には、和田岬は、実態を知らないワンダーランドだった。

物心ついて、和田岬、苅藻、中央卸売市場、兵庫運河などの地名がインプットされても、行く機会がないままだった。普段、電車で移動をしていると、なかなかアクセスが難しい。地下鉄海岸線ができて、地下でつながっても、景色が見えないと盛り上がらないし、地理的状況も入ってこない。たまに乗っても目的地とを結ぶだけで、プロセスが経験できない。旅行に行っても、便利な地下鉄よりややこしいバスや電車を選ぶのはしょうがない。

和田岬が近くなったのは、2007年、僕が旧グッゲンハイム邸と関わるようになってから。兵庫区と長田区を拠点に活動していた「下町レトロに首っ丈の会」の伊藤さんと山下さんが、旧グッゲンハイム邸の元・寮部分の初期住人だったことがきっかけだ。“下町をパラダイスにしよう♪”を合言葉に、下町とレトロをこよなく愛する20、30代の女子有志で結成された「下町レトロに首っ丈の会」は、兵庫区と長田区の昔から変わらないエリアを深め、楽しみ、冊子を作ったりガイドツアーをしたりしている。その活動の中で遭遇した、お母さんたちの作る愛くるしい造形物を「おかんアート」と呼び、展示をし、本を作ったのも彼女らだ。いまや「おかんアート」は全国共通語として浸透している。

「下町レトロに首っ丈の会」の会長、伊藤由紀さんは、知る人ぞ知る、そして全人類に知って欲しい和田岬にある駄菓子屋「淡路屋」の三代目店主である。娘(由紀)・母・祖母三代の女性たちが営んでいたこの“駄菓子屋”(亡くなる3カ月前まで お店に立たれていた祖母94歳は2015年に他界。合掌。)は笠松商店街の南、三菱重工の工場の入口に続く道にある。朝7時には工場に向かう人々にサンドイッチを売り、午後は近所の子どもたちが集い、さらに17時以降は外には子どもが溢れたまま、中は大人のお酒の時間になるのだ。NHKの『ドキュメント72時間』という番組で取り上げられたので、知っている方も多いかもしれない。今でも再放送される、とてもいい回だった。伊藤さんはその全世代の溜まり場である“駄菓子屋”を、おしゃれなクレープ屋にしようとしていた、おしゃれなカフェにしようとしていた。もがけばもがくほど、結果的には子どもの溜まり場としての機能を増やしている。「ねえちゃん」と呼ばれ、呼ばせ続けている伊藤さんも、もう店に立って長い。小・中学生のやんちゃ坊主として叱りつけていた子が、いつの間にか成人し結婚し、親子で駄菓子を買いにやってくる。「淡路屋」は日本のすべてのお店が手本にできる多世代交流の場になっている。

▲(写真:森本アリ提供)赤いテントの方をカフェにしようとしていたみたいだけど、今では子どもが集まるスペースになっている。写真は大人のお酒の時間のちょっと前

「下町レトロに首っ丈の会」の隊長、山下香さんもめちゃくちゃパワフルだ、パリの建築学校に留学していたり、研究と実践が勢いで交差する忙しすぎる逸材。僕は兵庫周辺で彼女と遭遇してはお互いにマシンガントーク、世間話みたいな情報交換を交わす仲だ。下町好きで仲良くなった脚本家の木皿泉さんの作品には、実は彼女が主人公のモデルになっているものがある。これはプチ自慢だけど、木皿泉さんの家のリノベーションを山下さんが建築家として担当し、僕が本棚を作った。基本的に、自分のためのDIYしかしたことがないので色々と不手際があり、山下さんから人生で一番叱られた。これも今ではいい思い出だ、そして木皿さん(実は夫婦のペンネーム)のプロフィール写真で、二人が微笑むバックに本棚が写っているのを誇らしく思っています。この機会を与えてくれた山下さんには今後も頭が上がりそうにない。

「下町レトロに首っ丈の会」の会長、伊藤さん、隊長、山下さんともに兵庫の和田岬を含む下町育ちだ。僕はこの二人を通して和田岬に初めて足を踏み入れてその面白さを教えてもらった。

(写真:森本アリ提供)

和田岬、そして兵庫運河周辺を歩くようになった大きなきっかけがもう一つある。2009年の5月、兵庫運河沿い2.5kmを舞台にした、様々な刺激的なロケーションで4時間かけて音楽が奏でられる「運河の音楽」という催しだ。歌手が乗り歌うレガッタが広大な運河を行き来していたり、町工場の3階屋上にある何年も使用されていなかった小さなクレーンが動き始め、そのクレーンと打楽器奏者がセッションしたり、10mごとに3人組のセッションが5組、聴こえてくる音を自分の耳でクロスフェードしながら進むデッキテラスがあったり、地元のハーモニカ名人や法螺貝(ホラガイ)奏者も参加し、最後は運河の側道が「音遊びの会」と吉田中学校のブラスバンド部そして70人の社交ダンスの人たちに埋め尽くされたこの壮大な音楽会。

▲(写真:神戸運河・コミュニティーアートプロジェクト『運河の音楽』提供)神戸運河・コミュニティアートプロジェクト 『運河の音楽』(2009)の一幕。左が普段は立ち入ることのできない神戸ドック。右は風船を使ったパフォーマンス。解体作業中の機械音と楽器の音が混じりあう

僕はその時、普段立ち入り禁止の神戸ドックと日清製粉の倉庫の解体中の現場の、やはり立ち入り禁止の側道で、仲間と演奏した。日清製粉前では、やはり兵庫区下町、西出町東出町そして自身が住みイベントスペース「salon i’ma」を運営し稲荷市場を見守る三宗匠くんとのコラボレーションでした。

稲荷市場はあれから10年近く経ち、正直言うと悲惨な変容を遂げています。その間に三宗くんは、稲荷市場に共に住み込み始めた仲間の赤松麻衣(そう、彼らは神戸芸術工科大学の「画一的なワンルームマンションよりも、下町でご近所さんたちと一緒に暮らす方が魅力的!」と感じる学生たちとの出会いをきっかけとして始まった、「住みコミュニケーションプロジェクト」の同志)と稲荷市場を文字通り埋め尽くす伝説的な結婚式をし、子どもも生まれ、「salon i’ma」は、何度も小さな稲荷市場内で移転をし、今もまた開店準備中の大工仕事中。去年の秋、塩屋で不定期に催す「しおやあれやこれや」に三宗くんに出演してもらうために打ち合わせをと話すやり取りの中で、毎週日曜の夕方からは中畑商店(稲荷市場の安くて美味しいホルモン屋)に家族で居るから来てと言われ、リアル「じゃりン子チエ」な状況を想像すると目頭が熱くなるのだった。

▲(写真:森本アリ提供)右は以前の「salon i’ma」。この辺りはすでにない。現在は、ワンルームマンション建設中。2018年には、やはり稲荷市場にて新装開店準備中

「運河の音楽」は、神戸大学大学院国際文化学研究科の地域コミュニケーションの一環として企画されたもので、僕はその時(と、2011年に再度行われた『神戸運河音楽祭「運河のほとりでおおだまこだま」』)を通して、現地を散歩するのはもちろん、日清製粉と打ち合わせをさせてもらったり、地域の老人ホームのハンドベルグループと交流を持ち共演をしたり、浜山小学校にて子どもとの音楽ワークショップをさせてもらったり、兵庫運河のレガッタ艇庫にてワークショップや上映会をさせてもらったり、地元の人々との交流をとても大事にした催しでした。

特に、当時の神戸大学大学院国際文化学研究科周辺の生徒たちが、地元の人、団体と交渉し、赤信号、黄信号が青信号になる、時間をかけたプロセスも間近に見せてもらい、それは塩屋での活動において学ばせてもらったことも多いのでした。そして、塩屋で行っている「しおや歩き回り音楽会 おとをさがして」という地域密着型の音楽会のおおきなモデルは「運河の音楽」でした。(ここの説明が面白い http://asianplasticparty.com/blog/?p=1549

(写真:神戸運河・コミュニティーアートプロジェクト『運河の音楽』提供)

中編へ続く〉
角打ちを飲み歩くお話はどこへ…次回こそ聞けるのでしょうか。続編をお楽しみに!