今夜、シタマチで。vol.13 前編 とことこ駄菓子屋編【前編】by 淡路屋3代目店主・伊藤由紀

今回は、真昼間のまちを歩く番外編。ゲストは、和田岬で駄菓子屋「淡路屋」を営む伊藤由紀さん。以前から「駄菓子屋が早晩なくなってしまうのではないか」という危機感を持っていた伊藤さんの熱き思いから、駄菓子屋をなんとかするためにプロジェクトメンバーが立ち上がった。そして、今ある駄菓子屋の記録を残すための足がかりとして「勝手にまち探訪・駄菓子屋編」を企画。今後は駄菓子屋マップに着手する。今回の記事は、伊藤さんとは長いつきあいで地図づくりにも携わるシオヤプロジェクト(以下、シオプロ)が取材&執筆を担当。「勝手にまち探訪・駄菓子屋編」での伊藤由紀との駄菓子屋巡りをもとに綴る、駄菓子屋の昔と今とこれから。

語り:伊藤由紀・シオヤプロジェクト 写真:岩本順平


「勝手にまち探訪」シリーズは、シオプロが歩き尽くした塩屋を飛び出して、朝から夕方まで勝手によその町をひたすら歩く企画である。今回特別に企画した「駄菓子屋編」では、JR神戸線、鷹取駅〜神戸駅の南側、地下鉄海岸線沿線にある駄菓子屋をまわった。午前9:30にJR鷹取駅を出発し、残暑まだまだ厳しい中、10軒の駄菓子を置いているお店をまわり、最後はJR神戸駅の西南、開発の波の前に風前の灯のような稲荷市場の「六條商店」まで、神戸のディープ・サウスを縄張りとする伊藤由紀さんとともに駄菓子を求めて歩いた。

進化し続ける駄菓子店、「淡路屋」

伊藤さんのおばあさん(一代目)、お母さん(二代目)の代から食堂・居酒屋として、和田岬・三菱村の工場労働者、サラリーマンの胃袋を満たしてきた「淡路屋」。

伊藤:それまでは全然継ぐ気もなかったんだけど、24歳ぐらいのときに淡路屋の椅子に座ってふと、これをなくしたくないなと思ったんです。

そう思い立った三代目・由紀さんは、厨房作業の本格化する午後5時まで、周辺の企業や病院勤めの女性を主なターゲットに定め、クレープ屋をオープンしようと一念発起。湊川のクレープ屋さんで修業をして、「淡路屋」の店の右側の張り出し窓部分を改造してクレープを焼くスペースをつくり、1994年12月にリニューアルオープンした。しかし、客層の見込みは見事に外れて、やってくるのは近隣の子どもばかり。年が明けて95年1月に起きた阪神・淡路大震災の後は、水道・ガスの通らない時から夜勤明けのお客さんのために朝6時にお店を開けて、サンドイッチを置きはじめた。

数ヶ月後、ようやくライフラインが完全復旧してからは、ターゲットに子どもも含めて、クレープも売る駄菓子屋に。子どもたちの要求に応えていたら、クレープ以外にたこ焼きや目玉焼き、フライドポテト…と、どんどんメニューは増えていった。駄菓子やおもちゃの占める面積もどんどん増える。さらには隣接するスペースにもショバを広げ、ギャラリーや貸しスペースとしたり、レトログッズを売ったりもした。そして今めざしているのは「泊まれる駄菓子屋」(?!)らしい。進化し続ける駄菓子屋「淡路屋」は、子どもにとって居心地のいい場所であるようだ。

伊藤:近所の子は、学校から帰って、家にランドセルを置いたらすぐやってきて、ずっといてる。5~6時間ずーっと。いつ帰るんかな?と思いながら私は見てるけど、ずっと楽しそうにいてる。男の子やったら、「勉強する」って言って集まってきたのに、お兄ちゃんとかがいる子がエロ師匠になって教えたり、今度は一発芸大会が始まって、これがエンドレス。

そんな、やんちゃな子たちが大きくなって、彼女を連れてきて紹介してくれたりする。伊藤 “おねえさん”に紹介して彼女のことを「ええ子やなー」と言ってもらうのだ。一方で、最近は近所に留まらず、新しい客層も増えた。

伊藤:テレビやSNSで紹介されるようになって、それまでは地域の人しか来なかったのが遠方から来てくれるようになった。子どもを連れて来てくれるけれど、子どもは何を買っていいか分からないみたい。駄菓子を見たことも食べたこともないから、どうやって選べば、買えばいいのかわからへんっていうのがよく見られる光景かな。

駄菓子だけで生活していくのは難しい

シオプロが考える、地域における三大絶滅危惧種「駄菓子屋・銭湯・(飲める)酒屋」。いずれも20〜30年前と比べると見るからに激減している。

私たちのイメージだと、1995年の阪神・淡路大震災あたりまではまだ路地で子どもが遊んでいたように思う。震災を機に、特に長田などは復興住宅が建って町の様相が変わった。道で遊ぶ子どもが減り、区画整理もされて小さい家兼お店にあった駄菓子屋が相当なくなってしまったのだろう。

伊藤:駄菓子屋というものは、家賃を払ってはできない商売だと思うから、自分の家でできていたのが、家が潰れてしまったり、最近なら台風で家が壊れたことが理由でやめちゃうパターンが多い。基本的に商売としては成り立っていなくて、自宅だからとか、高齢の方の場合は年金があってできていることであって。たぶん2割ぐらいしか儲けはないんじゃないかな。だからこれだけで生活しようっていうのは難しい。あと一緒におもちゃやたこ焼き、クレープ売るとかやね。
私の場合は、店をなくしたくないと思って続けてきたけれど、他の人はどうなんかな。「中川」とかは、もう90歳だから誰か継いでほしいって言ってた。親類でなくてもいいから、誰か継いでくれたらうれしいんやけどね。

とはいえ、他人が継ぐというのはなかなか難しい。今回のツアーでめぐった中でも、継ぐ人がいるという話を聞けたのは、駄菓子を置いているタバコ屋「徳田商店」くらいで、「私で終わりだ」というお店ももちろんあった。

伊藤:たぶん、ここ何年かで急に「ああ、なくなったな」っていうのは感じてて。町に駄菓子屋があるのって、あと5年もつかもたないかくらいじゃないかな。10年もつかなぁ。みんなご高齢やしね。

駄菓子屋そのものじゃなくて、その文化や機能を残したい

課題は高齢化だけではなく、問屋が減っているという現状もある。仕入れることもできなくなれば、やめるほかない。とはいえ、一部屋分のスペースもいらないのだから、玄関先で開業できるという利点もある。そうやって細々と商いを続けるか、「淡路屋」のように駄菓子だけではなく軽食も出すようなお店が残っていくのだろう。

そして伊藤さんが「駄菓子屋がなくなる」という危機感を覚えているのは、駄菓子屋そのものの存在というよりは、その文化というか、子どもが集う機能としての「駄菓子屋」なのである。

シオプロ:たとえば、駄菓子がなくても駄菓子屋的な“子どもの集う場”が必要なのかも。それに、駄菓子屋はいろんな変容の仕方をして、何かに寄生できる感じがする。パン屋とかタバコ屋とか酒屋に寄生できる。
駄菓子オンリーの駄菓子屋は今お勤めが終わりかけてる感じもする。大阪の富田林に新しいタイプの駄菓子屋があって。大人が食べておいしい素材のいいお菓子が置いてあって、横には人が集う空間が設けられていて。お母さんあるいはおばあちゃんたちのたまり場プラス子どもが来られる場として機能してる。塩屋にもお手頃価格のおしゃれ雑貨と駄菓子を置いているお店が住宅街の中にあって、放課後には子どもが遊びに来られる。つまり、親も一緒に来られるっていうのが大事なんじゃないかな、今は。おまけというか、両方ケアできるというか。

伊藤:そうしないと、たぶん商売にはならないからね。親が来ないとね。だけどほんまの駄菓子屋は子どもだけでくる方がおもしろいんだけどね。親がついてきたら子どもらが一気におもしろくなくなる。

つまり、たとえ大人が来たとしても「子どものための駄菓子屋」でなければ意味がない。「淡路屋」は居酒屋的な大人向けの商売もあって、駄菓子もあって、その両方が楽しめる希有なスペース。大人がビールを飲んで、その向かいで子どもがサイダー飲みながらゲームをしていて、フラットに会話できる場なのだ。

シオプロ:古着屋が駄菓子を置くとか掛け合わせは何でもいい。「淡路屋」ならビールのあてがうまい棒でもいい。たまに食べるとやっぱり楽しいし、それよりランク上のものを普通は置くわけやけど、駄菓子でつながって大人と子どもが同じ場にいられるっていうのは魅力的だと思う。親じゃなくても親世代が通うっていう。

伊藤:それに、子どもはお客さんの大人とよくしゃべる。大人の存在がめずらしいのか、いろんなこと聞きたいみたいで。「何しとん」「どっから来たん」とかいっぱい質問してるの見てたらおもしろいなって。5分後には「好きな子おるん」とか聞いてるから、友だちになるテンポが早いなーと思う。

それは、普通には知り合わない種類の大人たちだからなのかもしれない。子どものまわりには、たいてい親と先生と友達の親くらいしかいないし、他の大人と知り合う機会があまりない。そして子どもたちは、相手が誰であれどんな立場であってもストレートにもの言う生き物。

伊藤:子どもたちは思ったことをポンポン口に出すから、車いすで来ている人には「何で足悪いん?」とか聞くし、常連でダウン症のけんちゃんにも遠慮がない。けどそれはそれでまぁしゃあないんかなと思うねん。
隔たりがないんやろね。言うたらあかんとかはなくて、一緒の目線に立つから正直になんでも聞く。おじいちゃんおばあちゃんも一緒やし、ダウン症のけんちゃんでもみんな一緒なんやと思う。そういう場所はやっぱり駄菓子屋しかないような気がする。

後編へ続く
後編では「文化としての駄菓子屋」についてさらに掘り下げます。ツアーで巡った駄菓子屋さんも一部紹介!